翔ぶが如く(一)~(十) 司馬遼太郎 文春文庫
□マイブックミシュラン(星最大5つ)
読みやすい ☆☆☆☆
心にひびく ☆☆☆☆
発見がある ☆☆☆☆☆
ビジネス書 ☆☆☆☆
人生ヒント ☆☆☆☆
□しおり
ついでながら薩摩の武士道徳においては無学も恥とするに足りなかった。戦国以来江戸期を通じて薩摩藩でもっとも高貴とされてきた人間の価値はいさぎよさと勇敢と弱者に対する憐れみという三つで、武士の学問などはほどほどでよいとされていた。[P137]
□ブログ管理者評
征韓論―教科書で出てきた言葉は、長い間単なる歴史用語として僕の頭に記憶されていたに過ぎなかった。
その単なる歴史用語が、本著によってむくむくと人物が動き出し、風景が地面から生えるように現れ出て、歴史自体に熱を帯び始めたのである。
具体的には、西郷隆盛という巨魁を中心にして大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信、板垣退助などが東京―横浜―京都―熊本―鹿児島を駆け巡るのである。
そして歴史の教科書には出てこない川路利良という薩摩出身者が物語りにぐっと爪を突き入れている。
西郷、大久保を生んだ薩摩国(あえて国と呼ぶが)の側面をばっさりと切り裂き骨髄の髄液をしたらせた手腕は司馬文学の真骨頂と言えるだろう。
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□内容紹介
(一)
明治維新とともに出発した新しい政府は、内外に深刻な問題を抱え絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治六年、長い間くすぶり続けていた不満が爆発した。西郷隆盛が主唱した“征韓論”は、国の存亡を賭けた抗争にまで沸騰してゆく。征韓論から、西南戦争の結末まで新生日本を根底からゆさぶった、激動の時代を描く長篇小説全十冊。
(352ページ)
(二)
西郷隆盛と大久保利通ともに薩摩に生をうけ、維新の立役者となり、そして今や新政府の領袖である二人は、年来の友誼を捨て、征韓論をめぐり、鋭く対立した。西郷=征韓論派、大久保=反征韓論派の激突は、政府を崩壊させ、日本中を大混乱におとしいれた。事態の収拾を誤ることがあれば、この国は一気に滅ぶであろう……。
(384ページ)
(三)
西郷と大久保の議論は、感情に馳(は)せてややもすれば道理の外に出(い)で、一座、呆然として喙(くちばし)を容(い)るるに由なき光景であった。明治六年十月の廟議は、征韓論をめぐって激しく火花を散らした。そして……西郷は敗れた。故国へ帰る彼を慕い、薩摩系の士官達は陸続として東京を去ってゆく内戦への不安は、現実となった。
(368ページ)
(四)
西郷に続いて官を辞した、もとの司法卿・江藤新平が、明治七年、突如佐賀で叛旗をひるがえした。この乱に素早く対処した大久保は首謀者の江藤を梟首に処すという実に苛酷な措置で決着をつける。これは、政府に背をむけて、隠然たる勢力を養い、独立国の様相を呈し始めている薩摩への、警告、あるいは挑戦であったであろうか。
(336ページ)
(五)
征台の気運が高まる明治七年、大久保利通は政府内の反対を押し切り清国へ渡る。実権を握る李鴻章を故意に無視して北京へ入った大久保は、五十日に及ぶ滞在の末、ついに平和的解決の糸口をつかむ。一方西郷従道率いる三千人の征台部隊は清との戦闘開始を待ち望んでいた。大久保の処置は兵士達の失望と不満を生む。
(384ページ)
(六)
台湾撤兵以後、全国的に慢性化している士族の反乱気分を、政府は抑えかねていた。鹿児島の私学校の潰滅を狙う政府は、その戦略として前原一誠を頭目とする長州人集団を潰そうとする。川路利良が放つ密偵は萩において前原を牽制した。しかし、士族の蜂起は熊本の方が早かった。明治九年、神風連ノ乱である。
(368ページ)
(七)
熊本、萩における士族の蜂起をただちに鎮圧した政府は、鹿児島への警戒を怠らなかった。殊に大警視川路利良の鹿児島私学校に対する牽制はすさまじい。川路に命を受けた密偵が西郷の暗殺を図っている風聞が私学校に伝わった。明治十年二月六日、私学校本局では対政府挙兵の決議がなされた。大久保利通の衝撃は大きかった……。
(352ページ)
(八)
明治十年二月十七日、薩軍は鹿児島を出発、熊本城めざして進軍する。西郷隆盛にとって妻子との永別の日であった。迎える熊本鎮台司令長官谷干城は篭城を決意、援軍到着を待った。戦闘は開始された。「熊本城など青竹一本でたたき割る」勢いの薩軍に、綿密な作戦など存在しなかった。圧倒的な士気で城を攻めたてた。
(352ページ)
(九)
熊本をめざして進軍する政府軍を薩軍は田原坂で迎えた。ここで十数日間の激しい攻防戦が続くのである。薩軍は強かった。すさまじい士気に圧倒される政府軍は惨敗を続けた。しかし陸続と大軍を繰り出す政府軍に対し、篠原国幹以下多数の兵を失った薩軍は、銃弾の不足にも悩まされる。薩軍はついに田原坂から後退した……。
(336ページ)
(十)
薩軍は各地を転戦の末、鹿児島へ帰った。城山に篭る薩兵は三百余人。包囲する七万の政府軍は九月二十四日早朝、総攻撃を開始する。西郷隆盛に続き、桐野利秋、村田新八、別府晋介ら薩軍幹部はそれぞれの生を閉じた。反乱士族を鎮圧した大久保利通もまた翌年、凶刃に斃れ、激動の時代は終熄したのだった。解説・平川祐弘
(400ページ)
□作者プロフィール
司馬遼太郎(シバリョウタロウ)
大賞12(1923)年、大阪市に生れる。大阪外語学校蒙古語科卒業。昭和35年、『梟の城』で第42回直木賞受賞。41年、『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。47年、『世に棲む日日』を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。56年、日本芸術院会員。57年、『ひとびとの跫音』で読売文学賞受賞。58年、『歴史小説の革新』についての功績で朝日賞受賞。59年、『街道をゆく"南蛮のみちI"』で日本文学大賞受賞。62年、『ロシアについて』で読売文学賞受賞。63年、『韃靼疾風録』で大佛次郎賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、文化勲章受賞。著書に『司馬遼太郎全集』『司馬遼太郎対話集』(文藝春秋)ほか多数がある。平成8(1996)年没。
□マイブックミシュラン(星最大5つ)
読みやすい ☆☆☆☆
心にひびく ☆☆☆☆
発見がある ☆☆☆☆☆
ビジネス書 ☆☆☆☆
人生ヒント ☆☆☆☆
□しおり
ついでながら薩摩の武士道徳においては無学も恥とするに足りなかった。戦国以来江戸期を通じて薩摩藩でもっとも高貴とされてきた人間の価値はいさぎよさと勇敢と弱者に対する憐れみという三つで、武士の学問などはほどほどでよいとされていた。[P137]
□ブログ管理者評
征韓論―教科書で出てきた言葉は、長い間単なる歴史用語として僕の頭に記憶されていたに過ぎなかった。
その単なる歴史用語が、本著によってむくむくと人物が動き出し、風景が地面から生えるように現れ出て、歴史自体に熱を帯び始めたのである。
具体的には、西郷隆盛という巨魁を中心にして大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信、板垣退助などが東京―横浜―京都―熊本―鹿児島を駆け巡るのである。
そして歴史の教科書には出てこない川路利良という薩摩出身者が物語りにぐっと爪を突き入れている。
西郷、大久保を生んだ薩摩国(あえて国と呼ぶが)の側面をばっさりと切り裂き骨髄の髄液をしたらせた手腕は司馬文学の真骨頂と言えるだろう。
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□内容紹介
(一)
明治維新とともに出発した新しい政府は、内外に深刻な問題を抱え絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治六年、長い間くすぶり続けていた不満が爆発した。西郷隆盛が主唱した“征韓論”は、国の存亡を賭けた抗争にまで沸騰してゆく。征韓論から、西南戦争の結末まで新生日本を根底からゆさぶった、激動の時代を描く長篇小説全十冊。
(352ページ)
(二)
西郷隆盛と大久保利通ともに薩摩に生をうけ、維新の立役者となり、そして今や新政府の領袖である二人は、年来の友誼を捨て、征韓論をめぐり、鋭く対立した。西郷=征韓論派、大久保=反征韓論派の激突は、政府を崩壊させ、日本中を大混乱におとしいれた。事態の収拾を誤ることがあれば、この国は一気に滅ぶであろう……。
(384ページ)
(三)
西郷と大久保の議論は、感情に馳(は)せてややもすれば道理の外に出(い)で、一座、呆然として喙(くちばし)を容(い)るるに由なき光景であった。明治六年十月の廟議は、征韓論をめぐって激しく火花を散らした。そして……西郷は敗れた。故国へ帰る彼を慕い、薩摩系の士官達は陸続として東京を去ってゆく内戦への不安は、現実となった。
(368ページ)
(四)
西郷に続いて官を辞した、もとの司法卿・江藤新平が、明治七年、突如佐賀で叛旗をひるがえした。この乱に素早く対処した大久保は首謀者の江藤を梟首に処すという実に苛酷な措置で決着をつける。これは、政府に背をむけて、隠然たる勢力を養い、独立国の様相を呈し始めている薩摩への、警告、あるいは挑戦であったであろうか。
(336ページ)
(五)
征台の気運が高まる明治七年、大久保利通は政府内の反対を押し切り清国へ渡る。実権を握る李鴻章を故意に無視して北京へ入った大久保は、五十日に及ぶ滞在の末、ついに平和的解決の糸口をつかむ。一方西郷従道率いる三千人の征台部隊は清との戦闘開始を待ち望んでいた。大久保の処置は兵士達の失望と不満を生む。
(384ページ)
(六)
台湾撤兵以後、全国的に慢性化している士族の反乱気分を、政府は抑えかねていた。鹿児島の私学校の潰滅を狙う政府は、その戦略として前原一誠を頭目とする長州人集団を潰そうとする。川路利良が放つ密偵は萩において前原を牽制した。しかし、士族の蜂起は熊本の方が早かった。明治九年、神風連ノ乱である。
(368ページ)
(七)
熊本、萩における士族の蜂起をただちに鎮圧した政府は、鹿児島への警戒を怠らなかった。殊に大警視川路利良の鹿児島私学校に対する牽制はすさまじい。川路に命を受けた密偵が西郷の暗殺を図っている風聞が私学校に伝わった。明治十年二月六日、私学校本局では対政府挙兵の決議がなされた。大久保利通の衝撃は大きかった……。
(352ページ)
(八)
明治十年二月十七日、薩軍は鹿児島を出発、熊本城めざして進軍する。西郷隆盛にとって妻子との永別の日であった。迎える熊本鎮台司令長官谷干城は篭城を決意、援軍到着を待った。戦闘は開始された。「熊本城など青竹一本でたたき割る」勢いの薩軍に、綿密な作戦など存在しなかった。圧倒的な士気で城を攻めたてた。
(352ページ)
(九)
熊本をめざして進軍する政府軍を薩軍は田原坂で迎えた。ここで十数日間の激しい攻防戦が続くのである。薩軍は強かった。すさまじい士気に圧倒される政府軍は惨敗を続けた。しかし陸続と大軍を繰り出す政府軍に対し、篠原国幹以下多数の兵を失った薩軍は、銃弾の不足にも悩まされる。薩軍はついに田原坂から後退した……。
(336ページ)
(十)
薩軍は各地を転戦の末、鹿児島へ帰った。城山に篭る薩兵は三百余人。包囲する七万の政府軍は九月二十四日早朝、総攻撃を開始する。西郷隆盛に続き、桐野利秋、村田新八、別府晋介ら薩軍幹部はそれぞれの生を閉じた。反乱士族を鎮圧した大久保利通もまた翌年、凶刃に斃れ、激動の時代は終熄したのだった。解説・平川祐弘
(400ページ)
□作者プロフィール
司馬遼太郎(シバリョウタロウ)
大賞12(1923)年、大阪市に生れる。大阪外語学校蒙古語科卒業。昭和35年、『梟の城』で第42回直木賞受賞。41年、『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。47年、『世に棲む日日』を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。56年、日本芸術院会員。57年、『ひとびとの跫音』で読売文学賞受賞。58年、『歴史小説の革新』についての功績で朝日賞受賞。59年、『街道をゆく"南蛮のみちI"』で日本文学大賞受賞。62年、『ロシアについて』で読売文学賞受賞。63年、『韃靼疾風録』で大佛次郎賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、文化勲章受賞。著書に『司馬遼太郎全集』『司馬遼太郎対話集』(文藝春秋)ほか多数がある。平成8(1996)年没。
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