夏草の賦(上)(下) 司馬遼太郎 文春文庫

夏草の賦(上)(下) 司馬遼太郎 文春文庫



□マイブックミシュラン(星最大5つ)

読みやすい ☆☆☆☆
心にひびく ☆☆☆
発見がある ☆☆
ビジネス書 ☆☆☆
人生ヒント ☆☆






□投稿者しおり

・「大将というものは、ほうびをあたえる者をいうのだ」と、元親は明快に定義した。それ以外に大将の機能はない、とさえいえる。よき大将は、価値のよき判断者である。将士の働きを計量し、それがどれほどの恩賞にあたいするものかを判断し、それをあたえる。名将のばあい、そこに智恵と公平さが作用するから、配下の者は安心してはげむのである。[下・P113]

・ひとは、利に貪欲なのではない。「名誉に貪欲なのだ」[P114]

・――玉と砕けても、全(まった)き瓦として生き残ることを恥じる。ということばで、後世この心情は説明されるようになった。唐人や南蛮人には理解のできぬりくつであろう。なぜ日本人にこういう気質がうまれたのか、筆者もよくわからない。あるいは風土によるものか。この国土は台風、地震といった天災地変が多く、わが屋敷、田畑もいつ自然に破壊されるかわからず、このため粘着力のある打算ができぬ気質になってしまっている。そうともおもえるし、もっと民族的なものかもしれない。[下・P116]

・「いや、おれのやりかたのほうが、たれのやり方よりも正しいのだ」(老いはじめた)と、人がそういう言葉を吐いたとき、すでに老いているのであろう。菜々はこの言葉をきいたとき、そうおもった。元親は元来が頑固者であったが、他人の説ややり方が正しいとなるとどんらんなほどにそれを吸収した。菜々の意見さえ用いた。それが元親の魅力であったし、わかわかしさであった。[下・P212]







□ブログ管理者評

人にはやはり宿命があるのだろうか。どこで生まれ落ちたかによって、その後の枝分かれしていく人生の先は変わってしまうのだろうか。

元親は天下をも狙える人物であった。しかし土佐という中央から懸絶された場所に生まれたために、ついに秀吉に天下を譲ることになったのである。

しかし、本当に生まれ落ちた場所によるものだろうか。たとえ辺鄙なところに生まれ落ちようとも、天に光を当てられた者は天下にその名を轟かせるのではないだろうか。秀吉はその最たる例といっていい。

それを考えると、冷静なもの言いをすれば、長宗我部元親はそこまでの男であったし、逆にそこまでも出来た男でもあったと思えるのである。









□内容紹介

英雄豪傑が各地に輩出し、互いに覇をきそいあった戦国の世、四国土佐の片田舎に野望に燃えた若者がいた。その名は長宗我部元親。わずか一群の領主でしかなかった彼が、武力調略ないまぜて、土佐一国を制するや、近隣諸国へなだれ込んだ。四国を征服し、あわよくば京へ……が、そこでは織田信長が隆盛の時を迎えんとしていた。


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□作者プロフィール

司馬遼太郎(シバリョウタロウ)
大正12(1923)年、大阪市に生れる。大阪外語学校蒙古語科卒業。昭和35年、『梟の城』で第42回直木賞受賞。41年、『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。47年、『世に棲む日日』を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。56年、日本芸術院会員。57年、『ひとびとの跫音』で読売文学賞受賞。58年、『歴史小説の革新』についての功績で朝日賞受賞。59年、『街道をゆく"南蛮のみちI"』で日本文学大賞受賞。62年、『ロシアについて』で読売文学賞受賞。63年、『韃靼疾風録』で大佛次郎賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、文化勲章受賞。著書に『司馬遼太郎全集』『司馬遼太郎対話集』(文藝春秋)ほか多数がある。平成8(1996)年没。

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